開院当時の竹川病院(診療所)
当時、親族に医師はいませんでしたが、その後は竹川家から多くの医師を生み出すきっかけにもなりました。
診療所は自宅の敷地内にあり、幼少期のわたしにとっては生活の一部でした。地下鉄のない時代、国道17号線沿いにあった診療所には、日々、交通事故の患者が搬送されてきました。急患や近所の方への対応に追われ、食事もままならず診療にあたる父の姿が記憶に残っています。
やがて交通の発展や高齢化など時代は変わり、リハビリの必要性を感じた父は「熱川病院」を創立。「治す」にとどまらず「ケアをして社会に戻す」ことを使命としたのです。人材不足のなか、その後も2つの病院を開設し、一人で切り盛りする彼の側で、末っ子のわたしはいつも話を聞いていました。大人になってからも変わらずたくさんの話を交わした父。“教師”であり、同時に“反面教師”でした。
忙しく働く父を見ていたわたしは、ひとつの考えに至ります。人の命を救い、ケアしながら複数の施設を運営するには“仕組み”が必要である――。現在の健育会の経営体制には、そのような背景がありました。医療にも経営は必要です。医師としての手腕を発揮しながらも、父は情に厚すぎる人間でした。優しく、失敗したスタッフに対してもチャンスを与えましたが、経営者としてはネックにもなりかねません。しかしながら、近年、わたしもその思いが理解できるようになった気もしています。
3月8日は天候に恵まれ、境内では梅が春の訪れを告げていました。午前はスタッフを中心にお墓を清掃。このお墓は父が生まれた地に、と兄とともに建てたものです。晴れた日には富士山を望むことができます。