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延命しない治療事例
- 私が担当した96歳で老衰で亡くなったある患者さんの例をお話しする。アルツハイマー病も高度だったが、若い時から本人が延命を望んでいなかったので、家族も点滴や経管栄養を希望しなかった。「食べるだけ飲めるだけ」で看取るということになった。亡くなる1ヶ月前には食事が数口になり、2週間前には水分だけになった。2日前には水分もいらなくなった。本人にご要望を聞くと「そばにいて下さい」とだけおっしゃった。この患者さんは、眠るように穏やかに亡くなった。ガリガリになるわけでもなく、普通の老人の姿のままだった。その時私は、高齢者の最期というのはこのようにあるべきではないかと考えた。
- これまでの体験の中で、できる医療は何でもやっていた患者さんは、最期は下血・吐血があり、さらに痙攣は起こし、感染症の嵐の中で凄まじい亡くなり方をしていた。しかし何もしないと穏やかに死んでいけるということがわかった。
- このような看取りを行なっていくと、看護師の価値観もだんだんと変わっている。
- 「こんなに穏やかな死は見たことがない。一日、一日、死に向かって穏やかになっていった。何もしないで穏やかに看取ってあげることも、私たちの仕事と思えるようになった」と言うようになった。
- 枯れるように死んでいけば、穏やかに死んでいけるということがわかった。私たちの動物の体は、そのようにできているのだと思う。
家族の選択によって分かれる明暗
- 家族がどのような治療方針を選ぶかによって、終末期の明暗が分かれてくる。
- 同時期に入院した2人のアルツハイマー病の終末期の患者さんがいた。
- Aさんは「食べるだけ飲めるだけ」の治療を奥様が望んだために2週間後に穏やかに亡くなった。奥様からは「こんなに安らかに死なせていただき、何とお礼を言えばいいかわかりません」とおっしゃっていただいた。
- Bさんは娘さんができる治療は何でもやってほしいと望まれた。そのために、中心静脈栄養を行ない、3ヶ月後にカテーテル感染症で亡くなった。娘さんは「もっと安らかに死なせてあげたかった。血を吐く姿は、苦しそうでかわいそうだった」とおっしゃっていた。
- 家族の治療方法の選択で満足度が大きく分かれた例だ。
- このように「食べるだけ飲めるだけ」の看取りを行なっていると、内科医でできることは何でもやっていた頃と比較して、家族から亡くなった後にお礼の言葉をいただくことが増え、「自分も亡くなる時は、母みたいに亡くなりたい」といってくれる人もいた。
「死の教育」の必要性
- 私たちにとって重要なのは「死の教育」ではないかと考える。
- 医学教育:死の質を問う教育。QOD(クオリティ オブ デス)を考え、最期どのように穏やかに死なせてあげるか、という教育は医学部の時から必要ではないかと思う。
- 一般の教育:孫やひ孫には、小さい時からおじいさんやおばあさんが安らかに亡くなっていく姿を見せていく必要があると考える。そうすると小さい時から、「人間はこうやって、最期は安らかに死んでいく」ということが自然と理解でき、更に死を知ることで命を大切にするようになるのではないかと思う。